昭和五十七年三月十九日 朝の御理解
御理解第八十八節
昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにすればかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。
昨日一昨日、十七日が合楽会でございますが、この頃は私は夜の研修にはも、出ないようにしてます。で、その合楽会での話を聞いたわけではないですけれども、昨日高松和子先生がお届けしておりましたが、昨日の合楽会で本当におかげ頂きました。というお話をしております。
それはお話がたまたま嫁姑の事になりました。そん時繁雄おっちゃまがお話しておられましたが、私達はもう若い時から教育勅語ね、(天皇のことば。天皇が大?に基づき親しく臣民に発表したと意志表示)
君には忠、親には孝、夫婦愛和して、兄弟仲良く、友達いれば、ま愛心 事あって。
というようなね、皆さんもお年寄りの方は皆、ご存じでしょう。
私、もう忘れてしまいましたけれども、繁雄おっちゃまはそれをずうっと読まれました。暗記しとられるわけですね。
だからそういう教育を受けてきとるからという、その先のお話は知りませんでしたけれども、これはどこまでもやはり、道徳的であれば、そういう風に活きられたらそれがやっぱ一番いいことですよね。
けれどもそれだけでは今日の御理解の八十八節。これは私はここの所を頂く時に、いつも思うことは、いよいよ限りなく広がりに広がっていくおかげ。八十八節。為には例えばね、人に悪い顔を見せないようにね、親が娘が嫁入りをするときに、鏡を持たせると云うのは、決して自分の身なりをきれいにするだけのものではない。
つらい苦しいとか、悲しいときに鏡を立てて、人に辛い苦しい悲しい顔を見せなよと、そしてま、家を治めていけよと云うことは、合楽で云われる黙って治めると、云うことである。その黙って治めるということも、合楽理念に基づくと出すね、もう最高の修行として、それこそ土の心として、それを受けていよいよ自分の心が豊かに大きくなっていく手だてともする。
ひとりでに物が出来るような物とおっしゃる。それにはまずなんと云うても心を肥やせと。その心を肥やす為の云うならば材料をです、家庭の中から、なら嫁は例えばなら、嫁姑の問題がなかなか難しい、けれどもその難しい物を難しいと云わずにね、それを修行として受けていくという折角、家庭夫婦兄弟を、生活がね、そんなら、とにかく有り難く、楽しく、頂いていけれる手だてを私、合楽理念に求めて、いよいよ心が豊かに大きくなるときに、初めて八十八節。
広がりに広がるおかげが受けられると思うんですよね。それには又これも高松和子先生が昨日頂いとりますように、これは神様にお知らせを頂いておるのにね、道徳的な生き方ね、道徳的生き方が問題を生むとある。
それこそ教育勅語のような生き方をしておればしておるほどです。それが自分のものであればいいのですけれども、教育勅語にはこんなにあるぞと云うて、それを人に、を責めたり、人の足ものが見えるようなことでは、折角の道徳が身についておっても、それがかえって問題を生んでいくわけなんです。ね。
だから本当に御道の信心はそれこそ馬鹿と阿呆で道を開けと云われるが、云うなら例えば嫁姑の中であっても、本気で馬鹿と阿呆。馬鹿と阿呆ということは、いよいよ豊かに大きな心ということです。
どんなことがあってもそれがさわらないというわけなんです。さわらないどころか、合楽理念に基づくとその事に対して、御礼が云うてけれるような心の状態をね。それが本当の事なのだから、本当の事が分かったら、その事に対して、御礼が云わずにおれないと云う生き方。
もういよいよ持って黙って治まっていくおかげが頂けるだけでなくて、治めていく人の心は、いよいよ嫌が上にも豊かに大きゅうなっていく。
だから豊かな、いわゆる限りないおかげね、道徳的な生き方が問題を生むのである。その問題が問題にするから、又問題になるのであるね。
で、なくて、もうその問題そのものがおかげとしてね、その場その場で消えていく、なくなっていくね。御道の信心はどこまでも道徳ではなくて、超道徳なのです。道徳を越えたものなんです。ね。常識というても、その常識をもうひとつ越えた常識なのです。
そこでなら、娘の教育が昨日の月次祭の話じゃないけれども、どうでも大学だけはやっとかんとならんとか、色々云うけれども、大学を出たからと云うて、女の幸福があるとは思われない。
かえって学が身を食うと言う結果にすら、なるのであるからそれよりも、それこそ嫁入る時に鏡を持たせるように、嫁入る時に信心という、いうならば最高の鏡を持たせてやるということ。そしてその問題は色々あろうけれども、問題が問題で、問題にせんですむほどしの信心の手だてというものをです、教えておくということが大事だということであります。
昨日は今ここではお風呂が隔日です。それ昨日は、私共の風呂に光昭が前の日に風呂入ってなかったというて、お風呂を頂きに参りました。丁度お風呂が住んだ後が夕食ですから、もうんなら一緒についでにここで御飯を頂いていけというて、まあ一緒に御飯、夕食さして頂いたんですけれども、光昭がもうします事です。これから兄弟四人が交代で親先生の夕食のおつきあいをしたらどうでしょうか、という意味の事を言うんですよね。
ですから「冗談のこと。この頃はもうお母さんと二人で頂くときが一番有り難い」ち私が言う。
「あんたどんがそげな心配・・・」以前は私、何ちいうですかね。ま、人を恋しがる性分が合って、もう一人でも誰かがこう、来てくれるのが嬉しかったんです。けどもこの頃は、もう本当にあの、家内とこう差し向かいでなあにも話はしないけれどもね、何か通い合うね、それこそ夫婦喧嘩は犬も食わんというがね、それは勿論夫婦の性愛の事でしょうけれどもね、私のようにもうその性愛がなくなってからね、言うならば本当に夫婦愛和しである、もうそれこそ今まで気がつかなかった、今まで届かなかった事をするので・・・心の言うならば配り方がね。もう本当にそれがなら言葉に出したり、形に出したりして、言うわけでも話すわけでもない。それでいてもう何とか、かんともいえん有り難い雰囲気が生まれてくるけん、そげな心配してくれんでんよかばいというて、まあもうしましたことですけれども、結局合楽理念に基づくと何もいわんですむことになるんです。
いわゆる黙って治めると言うグーグーいうてこらえ取るというのじゃなくね、その黙って治める事の中に親子兄弟、いうなら自分の周辺にもそれが交うていくようなおかげを頂く為に、いよいよ超道徳といわれるなら、合楽理念をいよいよ身につけてそれこそ、超のつくようなおかげ、いうなら広がりに広がっていくというおかげをですね、頂きたい。
決して教育勅語を実験実行するとか、道徳的な生き方ということがいけないというのじゃありませんよね。学問をしたらいけない、不幸せになる、学が身を食う、とい事はね、折角学問が確かに身を食うような事があってはならない。その学問がやっぱそれだけの学問を身につけておけばね、鬼に金棒のおかげを頂く為の学問であり、道徳でなからなければならん、ということですね。そこには根底にです、いうなら合楽理念、いうなら黙って治める。
いよいよその事を持って自分のいよいよ豊かに大きゅうなれる手だてともしていくという事ですから、その事に対して御礼がいえれる。限りなくこれは大きくなっていく、広がっていく、八十八節である、広がりに広がる誰でもおかげの頂け、いうなら超のつくようなね、超大作とこう申しましょう。
いうなら超神徳、超おかげが頂けるようなおかげを頂く為に、いよいよこの八十八節にある、教祖の御教えのお心を対しさせてもろうてね、それこそ黙って治めれれる、教えの鏡を立てさせて頂いたら、あらこれは御礼をいわねばならんことに自分はプンプン腹かいとる、御礼をいわねばならないことに自分がくうっとして悲しがっとると教えの鏡にはっきり写るのである。
合楽理念という鏡を立てるとはっきり分かってくるのである、それを嫁入っていく娘なら娘にも与えておけるような親になりたいね。
そしていうなら超のつくようなおかげを頂きたい、道徳的な生き方が問題を生むのであるね、だから問題を問題でせんですむ、という、いうならば心の状態を頂きたいね。そして限りなく豊かに大きな心にならせて頂いて、限りない豊かに大きなおかげを頂きたい。 どうぞ